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我が愛妻と彼女

ただし

男性は小生ではない

天山山腹 雪に覆われし天地にて

左より日本人X氏 我が愛妻日本人 右、ウイグル人は深窓のマリヤム

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交友録《1》

シルクロードの旅 途上にて 2010年春

・・・・10世紀 唐王朝が終焉し、中国が混乱し、権力者は己が覇権を確立すべく、戦いに明け暮れた時代である。 後梁、後唐、後晋、後漢、後周 いわゆる五胡十国と呼ばれた時代であった。 黒竜江から南、満州の大地を支配するツングース系民族の大国“渤海”は 10世紀初頭、西は興安嶺山脈にて遊牧・猟遊する契丹族の首長・耶律阿保機に率いられた騎馬に国土を蹂躙された。 耶律阿保機は渤海国を亡ぼし、西方は蒙古高原の遊牧騎馬勢力鳥古勢力を壊滅した。 興安嶺山脈南部に政権を樹立したのです。 自ら王/カン、ハンを名乗った。 遊牧民の政権にとって 豊潤な黄河地帯が羨望の的である。 耶律阿保機は南下した。 騎馬の将は歩兵一千人に相当する。 遊牧民の生活そのものが軍事訓練であり、遊牧民の社会組織が軍事組織です。 耶律阿保機は中国の混乱に乗じて、燕京(現在の北京市)に侵略した。 燕京を占領支配し、自ら皇帝として遼(キタイ)王朝を開いた。 916年のことである。 黄河北域・華北は阿保機の遼帝国の領土になった。 黄河北部 東は満州地帯と興安嶺山脈周辺から西の西夏王国境までを領土にする帝国“遼王朝”の権勢に 西夏王国や西方の天山ウイグル王国も遼帝国の覇権に服属した。 990年ころ、華南(黄河南部)で宋の太祖が周辺諸国を制圧し、覇権を樹立していた。 遼の覇権と宋の覇権が黄河を挟んで対立する。 遼王朝内では 絢爛豪華な中国文化を受け入れようとする改革派と遊牧民の文化を固守しようとする保守派が対立していた。 1003年、宋の軍団が北上した。 遼は迎え打ち、宋軍を撃破する。 以降、遼政権は宋を圧迫し、1004年に宋は和睦した。 和睦条件は宋王朝は遼王朝に毎年膨大な財貨と皇女を貢ぐ事と王族の人質であった。 この毎年の膨大な貢物が遼王朝の皇族・貴族を堕落させて行った。 宋王朝は毎年、その屈辱に雪辱の牙・槍剣を研いでいた。 遼帝国の北西、黒竜江を基盤にする女真族が勢力を拡大させていた。 女真族の首長は阿骨打/アボタである。 アボタは旧渤海国の北部域を手中に収め、その権勢を確実なものにして行った。 1115年、台頭するアボタは遼帝国に反旗を掲げ、即位した。 金王国の誕生である。 宋政権は渤海湾を渡り、アボダに密使を派遣した。 宋の誘いを受けた金・アボタは騎馬の将兵を南に向けた。 1123年、金軍団は燕京を攻撃し、遼帝国を揺るがした。 最後の遼皇帝・天祚帝は西の雲中(山西・内蒙古の省境)は陰山に逃亡した。

耶律大石 遼帝国を開いた耶律阿保機の末子・耶律牙里果の七世の孫である。 秀才の誉れ高き皇子である。 1087年に生まれ、27歳で“進士”で翰林院に入っている。 契丹人では 唯一 彼だけである。 武人でもあった。 遼帝国の領土が金の馬蹄に踏みにじられ、かつ 南方から宋の軍団が20有余万の将兵で北上した折。大石は少数の兵で宋の軍勢を撃破している。 耶律大石は遼政権の宰相と図り、逃亡した皇帝・祚天帝の代わりに、耶律淳(祚天帝の従父)を皇帝に就かせて燕京にて北遼を建国させた。 1222年の頃である。 耶律淳皇帝は耶律大石を軍事統師に任じ、彼を国防の最高指揮官として、 国家防衛を一任した。 耶律淳皇帝は あっけなく病死する。 宰相は天祚前皇帝の五男・耶律定を北遼の皇帝に即位させた。 新皇帝は幼年である。 勢力が衰えた北遼王朝を宋帝国は幾たびも、攻撃を掛けるが 大石に反撃され兵を引いている。 宋の皇帝・太祖は金の阿骨打/アボダ王に再度 燕京に侵攻し遼の勢力を駆逐する旨依頼した。 アボタは遼帝国に代わり、我が王朝を創建すべく大軍を発した。 三軍に分けた。 赤峰方面からと大同方面の両翼が長城を超え、中核部隊が居庸関を超えて燕京を攻略する戦略である。 耶律大石はアボタ軍団の中核を撃破すべく居庸関に進軍した。 背面の宋軍の動きに、少数の迎撃隊である。 多勢に無勢、 大石は居庸関でアボタに捉われてしまった。 耶律大石は阿保打王から遼の宰相が宋の太祖皇帝や阿保打王に内通している事実を知らされた。 且つ、臣下せぬかと強要されが、 彼は居庸関を脱出した。  燕京に走り、宰相とその嗣子を殺し、幼年の北遼・天錫皇帝(耶律定)を擁し 先帝が隠れる陰山に走り、逃亡した。 1234年の事である。 阿保打/アボダは華北の遼勢力を駆逐し、 1225年燕京に金帝国を開いた。 この時に遼帝国は滅亡した。 宋政権は新たな敵、金帝国と対峙しなから華南一帯を征圧して行く。 陰山で先帝にみまえた耶律大石に 遼皇帝は北遼皇帝・天錫帝をなぜ擁立したかと問責した。 大石は傲然と天祚帝が我先にと・逃亡・逃避したが 故に と答えた と史書にあります。

貧すれば鈍するである。 遼皇帝・天祚帝は北遼皇帝・天錫帝(正嗣五男)を疎み、また 猜疑の眼で見るようになった。 耶律大石の人望に 武勇に 英知に 帝たるものが いや 天錫帝を擁立する大石が目障りであった。 耶律大石は身に危険を感じるようにもなった。 内も外も安住できぬ、お互いの不審がが渦巻いていた。 1126年の冬、 耶律大石は燕京より脱出した腹心の将兵二百名つれて、夜陰に紛れ、陰山を離れた。 西方に走り、ゴビ砂漠を横切り、黄河に出た。 五ケ原辺りであろう。 凍結する黄河を騎馬で一気に渡り、南下した。 西夏王国へ亡命するとの策動であった。 終日 馬をせめオルドス中央部あたりで一夜を明かし、隊を三分した。 陰山山脈西北に今は使わぬ遼国の砦がある。 この砦跡にて春に集結しようと、一隊は副将格の耶律要時に80名を率いさせ東方は大同方面に向かわせた。 金の阿保打の動向を探らせ、陰山山脈を縦断する苦難の道に進ませた。 一隊の100有余名は西に走った。 西夏王国に亡命するように見せかけた行動である。 義弟・耶律獲雲に策をさずけた。 西夏王国に入れば、西夏の要人ウイグル族のセデキ・ウルフに会い西夏西方は黒城より砦に来る旨の策である。 バタキリン砂漠を横断せねばならぬ道程である。 セデキに会えなくば、天祚皇帝の下に復位しろとも念をおしている。 耶律大石は残る十余名の部下を伴い北西に馬を走らせた。 臨河から北上して陰山山脈西端より砦に向かう最短の行程であるが阿保打の捜査網が張られている危険な道である。 大石は三日に再び黄河の屈局部に達し、氷ついた黄河を渡った。 隊商路は避け、間道を使って砦に入ったのは黄河を離れて二週間目であった。  砦は朽ち、城門は無く蒙古族の遊牧民が冬の家に使っていた。 耶律大石には部下が集結した後、遠祖の故里 興安嶺山脈にて再起を図るか、北上して蒙古族に同化するか、答えはなかった。

砦には時折 蒙古高原の深部に向かう隊商が立ち寄った。 シルクロードを行き交うソグドの民だ。 大きな隊商とのなれば100人以上がラクダを150頭ほど連ねて旅をしている。 耶律大石は慎重であった。 潜伏が隊商を通じて洩れることを、また 情報収集にも怠らなかった。 一月ほどした頃、この地の有力氏族・モンゴル族の子弟が立ち寄った。 長兄はグエンと名乗った。 二十歳前後の若者である。 彼は弟二人を帰らせ、砦に止まった。 時をおかず彼は耶律大石のネルゲ(自己が所族する氏族、また家族との血縁関係を絶ち、信奉する人物を生涯尽くす人間関係。 従者・家臣の関係ではなく 対等であるも狂信的なフアンと言える) になった。 耶律大石の素性は知らなかった。 草原の草が芽でる頃、 グユンの弟が陰山山脈北麓に契丹人が屯している情報を持って来た。 大石は耶律要時だと推察してグユンを行かせた。 要時であったが馬が20数頭しかひいていず、全くの敗残兵であった。 馬を食して陰山を越えて来たのである。 うかつに砦に近づけないことも知っていた。 要時は阿保打が耶律余賭に300の精鋭を率いさせ大石を追わせている情報を伝えた。 約束の期限には まだ二ヶ月ほどあった。 大石は義弟を待つしかない。 要時・グユンを中心に部下達は情報集めに四方に散った。 約束の期限が切れた。 義弟・耶律摂雲の情報はなかった。 冬になった。 隊商キャラバンが活動する時期である。 11月になり 騎馬する護衛を伴う大きな隊商が近づいてきた。 大石とグユンの前に護衛隊長らしき壮者が頭を垂れた。 耶律獲雲である。 グユンは獲雲が耶律大石の名を漏らした事に驚かなかった。 彼は父より遼王朝を支えた智謀の勇者“耶律大石”の人柄を聞き知っていた。 また 金の阿保打が追跡していることも知っていた。 また 薄々感じていた事に間違いが無かったことに満足もした。 耶律獲雲の報告によれば セデキ・ウルフの世話で大きな隊商の護衛を勤め、この隊に40名 他の隊商2隊にそれぞれ分かれて来春3月に集結する旨であった。 告げる、早々とキャラバン隊に戻って行った。 1129年は200名の部下達はそれぞれ隊商キャラバンの護衛の仕事で蒙古各地を旅して己が口を養った。 護衛の仕事は義弟・獲雲が指示を行い、情報収集は要時が指揮をとるも自ら遊牧民に紛れて収集した。 グユンはなにくれと大石の世話をみた。

1130年春、隊商護衛の仕事を終えた部下二百名が久方に全員揃っていた砦を金軍が突然攻撃した。 約二ヵ年の滞在で城門・城壁は修復されていた。 遠見櫓で耶律要時が500の敵兵と叫ぶ、いつも側に居るグユンは三日前から居ない。 耶律獲雲は馬に鞍を掛けさせている。 が その数150頭も満たない。 戦いには絶対数足りなかった。 兵糧はある。 耶律大石は篭城を決断し、指示を出した。 敵兵は砦を包囲した。 じわじわとその包囲網を縮めて来た。 日の沈む前に 包囲網を説かずに野営した。 敵将は耶律余賭である。 金軍の旗に囲まれ悠然と指揮していた。 翌日 日が西に傾き、沈みかけた時、 突然包囲網の背後の浅い谷間から50有余の馬が余賭の背後を突いた突進で城門へと駆けてきた。 騎馬する者が外部からは見えず、やすやすと包囲網を突き破り城門を駆け抜けた。 砦内にて 馬首を掻き分けて現れたのはグユン三兄弟であった。 戦いに必要な馬は揃ったが大石は動じなかった。 対峙は10日続いた。 水が問題となった。 兵と兵馬の水は砦外の谷間しかない。 包囲網の外側しかない。 翌朝、グユン一人を従え 耶律大石は城門を出た。 迷わず耶律余賭の旗の下に赴いた。 余賭は大石を直視して言下に問うた。 “戦うか” 大石は即答した“戦う、戦いは兵の数ではない”  余賭が更に問う“阿保打皇帝に臣下しないか” 大石答えて言う“居庸関げ直接閣下に答えている”  更に余賭が問う“勝利して何処に行かれる” 大石眼を閉じ、開いて答えた”西へ 西にマニの故地あり、我が新天地あり” 興安嶺には行かれぬか” “くどい、東には活路なし” 突然 耶率大石は右手を上げて耶律余賭けに小声で言った。 “あれを見られよ” その示す指先に500は越すであろう平服だが弓矢のみを携えた蒙古族の集団が谷間から現れていた。 余賭は動ぜず“援軍か”と言葉を発する。 “知らぬ”と大石。 “あれは 父 エルゲン・ウルフだ”と唐突にグユンが答えた。 余賭は彼を擬見して“そなたは”と問うた。 “耶律大石殿のネルゲだ、父の行動は知らぬ、 ただ 父が動けば蒙古高原南部は封鎖できる。 父は戦いを好まぬ。 大石殿に会いに来ただけだろう” 答え方は尊大であった。 何時しか 一時は過ぎていた。 余賭は長い沈黙の後、口を開いた。 “耶律尊兄、 行かれよ 代え馬100頭を進ぜよう。 皇帝には北の地に逃亡したと報告する” と

【陰山山脈は中国・内蒙古自治区内は西側に位置しする。 山脈の南がゴビ砂漠です。 ゴビの東側は世界一の大草原が興安嶺山脈まで続く。 西側は黄河が北に大きく逆U字型に湾曲して陰山山脈に近づいて流れている。 黄河で囲まれた地域をオルドスと呼び、オルドスの南方に秦の始皇帝が築いた長城、その北に明時代の長城があり、 黄河最北部から陰山山麓にかけてが今 話題の希亜土・レアアースの一大産地です。 オルドスを制するもの 中国を制すると言われた地域です。 長城を南に越せば西安、 陰山山脈西端を回りこみ北上すれば蒙古高原の大草原地帯に出る。 チンギス・カーンはこのオルドスの西側で死んでいます。 毛沢東・八路軍もこの地を制覇して天下をとった。 黄河は冬季 氷結する。 日本帝国陸軍がこの地に大麻を植え、アヘンを軍資金に捏造にしたが故に、オルドスの草原地帯が現在砂漠化しているのですが、これ 蛇足】

砂漠を突っ切る一本の道

これから よろしく

トルファン 思い出の場所

砂漠の旅は いい 特に

冬がいい